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九谷焼の用語解説

九谷焼の用語

 

九谷五彩

 

まず何と言ってもこれが最初でしょう。

古九谷当初から伝わる「赤、紺青(青)、碧(緑)、黄、紫」の5色の「和絵の具」です。

左から鉄、コバルト、銅、鉛(硫黄?)、金(銀)を原料として灰などと混ぜて作られたのが起源と云われています(諸説有り)。

鉄は酸化すると(錆びると)赤くなり、同様にコバルトも(焼いたら)青、銅は緑、鉛は黄土色が浮き出てくるのは詳しい方なら理解可能でしょう。実際には窯で焼成する前の色は全然違うので古代中国の研鑽が素晴らしかったのは言うまでもないでしょう。

日本三大色絵磁器の、伊万里、有田、九谷全てが温泉地の近くにあるため硫黄は潤沢に採れたとも考えられるが、黄色に使用出来る技術があったのか?、一番の理由は色のために金属を溶かす硫酸や硫化水素を得るためだったと考えます。

「青九谷」と呼ばれる盛り絵具が基本。赤色は鉄分が多いためか「青九谷」にはなりません。

 

紫に金が使用されるのは何故か?というのは、金は薄めることにより焼いたら紫色になる成分が出てきます。

現在の九谷焼にも水金(すいきん)を塗った脇のほうに薄くなって紫色が出ているものを稀に見かけます。

「膠(にかわ)を使用せずに塗るとこうなる」と職人さんに以前に聞いていますが、詳しい事は私には解りません。

近年では銅の代わりに江戸時代末に欧米から入ってきたクロムなど材料に変化が見られます。

金銀も価値が上がった現在でも九谷の紫和絵の具に使用されているかは不明です。

 

明(古代中国)や有田の五彩には緑ではなく白、紫ではなく黒が含まれていますが使用されていなかった訳ではありません。

九谷焼が大大名加賀藩の庇護を得て銅や金を潤沢に使用出来たのではないか?と想像が膨らみます。

 

明治期以降、欧米から入ってきた「洋絵の具」によって様々な色や中間色が使用できるようになりました。

彩りも良くなり「伝統工芸」のイメージからの脱却も容易になっています。

 

 

素地

 

九谷では「きじ」と読みます。波佐見の方々も同様に読んでいましたので有田でも同様かと思いますが、山中漆器も木地「きじ」です。

九谷で現在取れる「花坂陶石」は字のごとく、磁器のみです。粘土は採れません。

白山まで続く山の一帯の反対側の白山市にはTOTO様の採石場も以前ありましたので山全体で陶石が採れるのでしょう。

有田や美濃の磁器素地と違い、黄色掛かった乳白色をしており、高台(ハマ)部分を並べて見比べてみると一目瞭然です。

 

カタログには他産地の素地を使用した商品には銀色のマークが付いており、商品の箱にも銀色シールの貼布が義務付けられています。九谷素地は金色です。

九谷も波佐見も生産量を補うため、国内シェア6割の美濃の素地も使用していますが、各産地で絵付けされた商品はその産地のものとみなされています。

 

九谷の陶器は、概ね信楽から良質の粘土のまま購入しています。九谷で成型されたものは同様に九谷素地とみなされています。

「半磁器」は九谷の陶石と他産地の粘土をミックスして成型されたもので個人窯元での使用は増えてきています。

 

 

窯の種類

 

素焼き

成型後、乾燥させた素地にまだ残っている水分子を飛ばすために行う。

陶器と磁器で温度が異なるが、800度~900度前後。十分に乾燥させないと軽く水蒸気爆発して割れる。

以前、ボーイスカウトで一晩掛けて素人土焼きを行いましたが、乾燥不十分で殆ど割れてしまった経験が有ります。

 

 

本窯

1300度前後。

空気を取り入れた酸化窯や密閉する還元窯がある。

酸化窯は釉薬に深みを加えるため磁器が黄色掛かったり貫入が入る。九谷の大手窯元では現在ほとんど行っていない。

 

上絵窯

温度の低いうちは鉛を飛ばすため口を開ける必要があるが、基本還元。

温度は700~880度。低い温度は銀彩や荒窯、高い温度は無鉛絵の具の焼成に使用。通常は780度~820度。

 

金窯

580度~700度前後。高い温度だと色に吸い込まれて消えることも有る。

ちなみに一部の「シルク転写」の金は820度まで可能で、一度で焼成出来るものもある。

色転写と金転写が別になっているものは上絵窯→金窯の二回焼成が必要。

 

 

九谷の画風

 

起こりの年代順に、

「古九谷」「木米」「吉田屋」「飯田屋(八郎手)」「庄三」「永楽」←九谷歴代画

となり、大正初期から「青粒」、近年「釉彩」となっています。

大別するとこの8種、別枠で「染付」「吹き付け」、その他派生系「釉裏金彩」「釉裏銀彩」「花詰」「本金彩」「金襴手」などです。

 

古九谷

江戸時代前期に九谷村で約40年間開窯。

九谷五彩を「青九谷」で使用した謎の多い時代です。発見・発掘されたものしか種類は解りません。

北前船の一大寄港地の山形県酒田市でも「古九谷」が発見されています。

 

九谷焼の開祖、後藤才次郎が有田で修行していたので、古伊万里にも「古九谷様式」があります。

どちらが最初に創めたか?、北前船やその前に運ばれただけなのか?は、誰にも判りません。

 

木米

古九谷再興を目指し、京都から青木木米を招き、金沢で開窯した。

赤を基調に人物や植物を赤以外の「青九谷」で施した。

 

吉田屋

明治初期の吉田屋窯で作られた作品の総称。

九谷五彩から赤以外の「青九谷」で彩色。

 

飯田屋

吉田屋窯の跡を継いだ宮本窯が招聘した名前が飯田屋八郎のため「八郎手」とも言われる。

赤と黒呉須と金のみを使用する「薄絵(うすえ)」。←「青九谷」の対となるもの。

「九谷赤絵」の起源。

 

庄三

明治から現在まで九谷焼の繁栄を作り上げた「中興の祖」。

「古九谷」「飯田屋」のちに「金襴手」まで色々ミックスして昇華した。

最も世界に輸出された、「ジャパン・クタニ」の基になった。

 

永楽

赤を基調に全面に施して金のみで彩色。「薄絵」。

「金襴手」、色を取り入れた「彩色金襴手」、「花詰」へと派生。

 

青粒

黒呉須、白素地のままをベースに青色の粒を盛り、金を施した。

「鉄仙」「七宝」「亀甲」など様々な文様を取り入れた。「イッチン盛り」に技術昇華。「黒彩」にも応用派生。

 

釉彩

色にガラス釉を混ぜ、素地全体を塗り上げた。

上絵を高温の窯で流した「彩釉」、金銀箔を素地に貼った「釉裏金彩」「釉裏銀彩」へ派生。

 

染付

素焼きした素地にコバルトを主とした呉須で描き、釉薬を付けて本窯焼成したもの。

明代の景徳鎮から技法が伝わる。

 

吹き付け

近年コンプレッサーが普及したことにより雲母鉱石やガラス釉を均等に吹き付けることが可能になりました。

厚紙で型取った連山や「釉裏金銀彩」への使用が主。

 

本金彩

色々な画風から「本金(純金)」を使用したものの総称。⇔「水金」

本金の代わりに金箔を使用した「金箔彩」へ派生。

 

以上、現行の九谷焼商品に使用している画風は全て述べたと思います。

様々な画風をミックスさせた新しいものも生み出されていますが、現在のところ技術はこれで全てです。

 

 

 

簡潔に書きましたが、間違いなどがありましたらご指摘、連絡歓迎です。

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